福岡県筑後市の羽犬塚(はいぬづか)に六所宮という神社があります。6柱(天照大神、住吉大神、霧島権現、高良大神、恵比寿神、春日大明神)の神様が祀られていることから六所宮と名づけられ、その境内には、薩摩街道の宿場である羽犬塚町に点在していた5体の恵毘須さんが集められています。羽犬塚宿は、歴代の久留米藩主に愛された御茶屋(本陣)があり、藩主がたびたび休泊に訪れた場所です。このうち、中町に祀られていた恵毘須さんは、釣竿に鯛という一般的なお姿ではなく、男女双体の夫婦恵毘須さんです。御神像の背面には、正平12(1357)年と刻まれた銘文があり、製作年が判明している恵毘須像の中では、日本最古の恵毘須さんと言われています。
大川市は、柳河藩と久留米藩の藩境に位置しており、小保地区は柳河藩の宿場町として、榎津地区は久留米藩の港町として栄えました。古い町並みが残るこの地域には、当時、各藩の川港が2か所あり、鍋島藩諸富の寺井津に繋がっていました。徒歩約20分の範囲にユニークで特徴のある恵比須さんが16体。三つ柏の御紋、宝珠がはっきりわかる恵比須さんもいらっしゃいます。町内で祀られている恵比須さんは、一月と十月には、二十日恵比須のお祭りが催されます。また、神社境内には、立派な石造りの祠にある対の恵比須さんが3ヶ所、丸石の恵比須さんも3体、個人で祀られている恵比須さんは6体あり、当時、この地域がいかに栄えていたかを偲ばせています。
大牟田市民に親しまれている「大牟田二十日えびす」は、昭和26年3月に大牟田商工会議所が、戦後の物資不足の時代に対応し、商業繁栄の一方策として、大正町通り(大正町恵比須神社周辺。恵比須神社は新改築の際、商工会議所を中心に寄付を募り設立された)を会場に始めたもので、50年以上の歴史があります。当時は質流市をメインとした内容でしたが、現在では植木市を中心に物産展・食の市等多彩な行事に多数の露店が立ち並びます。また、大牟田市内には、恵比須町という地名も残っています。近年でも、新たに商店街に恵比須が祀られ、大牟田市の繁栄を見守っておられます。
江戸時代、鳥栖市にある田代地区と驫木地区は、長崎街道沿いの宿場町として栄えました。当時の旅人の日記にも、その賑わいの様子や恵比須像のことが記されてあり、宿場や街道筋では、今も「市」や「講」が行われています。天保5年と刻まれた銘文のある恵比須さんを祀る隣保班では「講」が、鯛の代わりに鯉を抱く、非常に珍しい線刻恵比須には、「市」がたち、この時だけ焼かれる限定の栗まんじゅうは名物。富くじの記録が残る恵比須に「市」がたつ日は、今も神事が行われています。鉄道開通後に鳥栖駅周辺が栄え、個人や隣組でそれぞれ特徴のある恵比須さんを祀り更なる繁栄を祈りました。明治から昭和にかけて、比較的新しい恵比須さんが駅周辺に集中し、今も人々に温かく見守られています。
小城市には、130体を超える恵比須像が残されています。特に、小城鍋島藩の城下町であった小城市市街地や長崎街道の宿場町(牛津宿)であった牛津駅周辺に多いようです。小城町には蛭子町があり、恵比須像を御神体とした恵美須神社も鎮座しています。小城市西部の丘陵地帯でとれる石(安山岩)は、丈夫で長持ちするため昔から石造物の石材として使われており、周辺では多くの石工たちが活躍していました。佐賀市で見られる恵比須像の多くも、小城市でつくられたものです。そのため小城市の恵比須像は佐賀市に見られる恵比須像と大きな特徴の差異はありませんが、造りかけの恵比須像や石を割った際にできた矢穴が光背に残った恵比須像が散見されることが特徴です。
伊万里市は、江戸時代には「古伊万里」と呼ばれた有田焼の積出港として、また全国各地の産物入荷で栄えた商人の街です。商家や市場を守護し、商売繁盛、家運長久を祈願して、神社の境内や魚市場の一隅、商家の軒先、街角などに、石造のえびすさんを祭り、財福神としての信仰が広まりました。伊万里市には素朴な恵比須像が多く、半数は神社境内に他の石像と一緒に、中心部には、古い商家とともに、商売繁盛を願うえびす像が店舗前や街角に数多く残っています。地元観光ボランティアの会の調査等の結果、現在37体の恵比須像が確認され、スタンプラリーも行われています。また、毎年1月上旬には、開運・招福を願い新春恒例の伊万里えびす祭が、市内中心商店街で開催されています。
恵比須さんと言えば、右手に釣竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的ですが、南島原市には、全国的にも珍しいそろばんを抱えている恵比須さんが数多く見られます。地元の方に聞くと、商売繁盛を願って祀っていると言われる方が多いのですが、その一方で興味深い逸話も残されています。それは、島原の乱で生き残ったキリシタンたちによって祀られたもので、そろばんの珠を弾く姿が十字を切っているのではないかというもの。家の中に祀られている恵比須さんが多いという話や、そろばんの連なった珠がロザリオをイメージさせるという話も、隠れキリシタンの崇拝仏として、恵比須が祀られていたのではないかという想像を掻き立てるに十分です。勿論、真実は誰にも分かりませんが・・・。
長崎市深堀地区は、江戸時代、佐賀鍋島藩に属し、城下町として武家屋敷通りの町並みを残しています。恵比須信仰の厚い佐賀藩の影響を受け、この地区の恵比須さんは約70体。そのほとんどがもろい砂岩系の石が使われています。明治の初め頃、漁師たちが漁船に使う塗料で、崩れかけた恵比須さんの笑顔を取り戻そうと、色づけしたのが始まりのようです。毎年各家庭から持ち寄った恵比須を地元の子どもたちが塗り直す地区もあり、江戸時代、唯一の国際都市長崎で、カラフルな中国文化の影響を受けたとの説もあり、独特の恵比須文化をまちづくりに活かしています。恵比須祭りは、浜恵比須は8月20日、波止恵比須は9月13日に行われています。
諫早市高来町は、江戸時代は佐賀鍋島藩に属し、殿さま道と言われる諫早街道沿いには、上使屋を置き佐賀の殿さまや諫早領の方々の宿場町として栄えていました。現在、諫早市内には、100体以上の恵比須さんがあると言われ、そのうち高来町内には45体が確認されています。多くの恵比須さんには、なぜか、赤いよだれかけや帽子、毛糸で編んだ着物などを着ておられます。比較的大型の恵比須さんが多いように思われます。近年は、市民団体がまちおこしにつなげようとまち歩きなどの活動を行っています。また、毎年1月21日と8月21日の年2回、恵美須まつりが行われていますが、祀りかたは、自治会や子ども会、地区の商売をされていらっしゃる方々、個人など様々なようです。
15世紀に佐賀鬼ヶ岳から豊前宇佐に移住した渡辺氏が、自らの守護神として佐賀から持ち帰ったえびす様を祀った四日市は、その名が示す通り、えびす様を宇佐にお迎えした後に毎月四日に祭事を行い、それと共に市が広がった地域です。新たな豪族の誕生によって四日市にはえびす様が次々と増え、えびす様の神徳と商人の町として発展しますが、豊後守護大名であった大友宗麟を頼り豊前に入った渡辺氏も、キリシタン大名の思想から逃れるように武士から仏教への道を歩み、後に九州最大の寺院の礎を築き上げ、現在では門前町にえびす様が点在するユニークな町並みになっています。全国八幡社の総本宮、宇佐神宮は神仏習合発祥の宮と言われていますが、四日市もまた、えびす様と浄土真宗が重なり合う、もう一つの神仏習合の地として存在しています。
昔から豊漁や航海など、漁民の信仰対象となっていたえびすさんは、海辺の集落ではどこでも見ることができますが、天草地方の中でも、古くからの漁師町である牛深や御所浦、倉岳、五和などで特に数多く見られます。港は勿論、民家の玄関先や軒先、神棚にもえびすさんが鎮座し、鬼瓦にまでえびすさんのお顔がお目見えするなど、えびす信仰の篤さがうかがえます。天草のえびす様は姿も様々ですが、大きさも様々です。天草最高峰の倉岳を背に、不知火海を見つめる倉岳大えびす像は、台座を含めた高さ10m、重さ320t、日本一の大きさを誇る、総大理石造りのえびす様です。キリシタンの島と言われる天草ですが、素朴なえびす信仰の残る島でもあるのです。
多良木町のある球磨郡は、昔から林業が盛んで良質の木材が取れたため、球磨郡の材木は高い値段で取引がされていました。特に、筑後地方には、炭鉱の必需品として大量の材木が運ばれていました。町内は材木の買い付けに来る多くの人で賑わっており、筑後地方の人々も、多良木町に店を構えたり、移り住んだりするようになりました。もともと筑後地方では、商売の神様として恵比須さんを奉る習慣があり、こういった交流の中から、恵比須さんが多良木町に運ばれてきたものと思われます。
町内には、1体1体ユニークな名前のついた恵比須さんがいらっしゃいます。また明治36年の恵比須神社の完成後、毎年ゑびす祭りが行われているなど、恵比須さんは町民に親しまれる存在であり、町のシンボルとなっています。